new プロ教師への道 Ⅲ~学校研究~

この内容は、会報「教育のひろば石川・№166(令和6年2月発行)」に掲載した「カット」していないものです。

「令和5年8月18日(金)文教会館」開催 メンバー

語り手  野田 大介(金沢市味噌蔵町公民館長・元金沢市立十一屋小学校校長)          中泉 隆子(元金沢市教育プラザ富樫研修指導員・元金沢市立森本小学校校長)
     田辺 睦子(元金沢市教育プラザ富樫 統括指導員)
聞き手  山下 修一(金沢教育振興会 理事長・元白山市立松南小学校長)

第3部「学校研究」
プロ教師への道Ⅲ 「教育を担う教師への熱きメッセージ」
 ~学校研究で大切にしたいこと・望むもの~

山下 プロ教師への道とテーマを設定し、三回目の今年は、学校研究に視点を当てて、語り手の皆様の考えを伺いたいと思います。たくさん伺いたいことはあるのですが、まず、一番、長い教師経験で、多くの学校で学校研究に出会ったと思いますが、①「自分を変えた・成長させた」と思う学校研究を教えてください。

野田 教職の人生が、まさに学校研究と共にあったようなものです。今はもう無い森本の山間部の竹又小学校という複式の学校で富山県との県境にあった。子どもは四十名。小規模校だったけれど、学校研究に熱心で、先輩の先生は研究授業のために、一ヶ月以上前から教材研究に取り組んで自分が納得いくまでやられて、初任の私にまで質問なさるんです。そこまでして授業する。その授業は、大変素晴らしい子どもの主体的な授業で感動して、自分もやってみたいと思ってやったら失敗しました。三年四年の理科で実験がいつまでも終わらない。予想と違った結果になって何度でもやり直したから。二百CCのビーカーはすべて同じ重さだと思っていたが違っていた為だった。じっと見ていた先輩の先生が「お疲れさん。先生も子どももよく頑張っとった」と言ってくれた時、学校研究っていいもんだ。学校研究を大事にして教員人生を歩んで行こうと思いました。

山下 教員になっての一番最初の研究授業は思い出に残りますね。いい先輩教師と出会ったということがよかったんではないかなと思います。

中泉 教諭として五校。教頭として二校。校長として二校勤務しました。いずれの学校でも、学校研究に取り組み、感慨深いものがあり、その中で学んだこともたくさんあります。成長させてもらったなと思うのは、まず、米泉小学校です。四校目の学校で、一番長い七年間在籍しました。米泉小学校は、創立当時から、国語科を専門に学校研究を進めていました。当時金沢市では、教科研究校がたくさんあって、色々な教科で様々な学校で推進されている中で、米泉小学校は、伝統も実績もあり、毎年、研究発表会を実施していました。言語環境も整っていて、俳句作りも盛んでした。学校学校研究における組織、三委員会では、研究部に属し、主題や取組を文章化したり提案したり授業実践を進めたりする毎日でした。折しも学習指導要領が改訂され、国語科では、「理解」と「表現」の領域が「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」「言語事項」の領域に変わりました。内容を理解し実践することは大変でしたが、みんなで勉強しました。また、伝統を受け継ぎ、持続し発展させるためにはどうしたら良いかと考える日々でした。初めて研究脂油人をさせて頂いたのもこの学校でした。研究授業や研究発表会では、授業がうまくいかないことも多々ありました。ねらいや発問とか課題の意識化とかそういうことを大事にしていた時でしたし、構造化する板書とかにも取り組んでいるのですが、なかなかうまくいかなくて、教師主体だったなと。子ども主体の授業にする時にはと考えた時、まだまだ未熟だったなと思います。
 また、自分を変えた節目の学校は、緑小学校です。地域も違い、子どもの実態もちがう学校では、前任校の経験が通用しないことがあります。規模の大きく、研究の窓口の教科もそれぞれの先生で違う学校でみんなをまとめるにはどうしたらいいかと苦労しました。研究部で意見を交流し、積んだり崩したりし、特に年度当初は、研究主題を設定する凄く大事な時だったので、時間がかかったこともありました。提案したことが通ることが前提でしたが、ある時、反対意見がでました。「それは無理」という雰囲気になったのです。押し通そうとした強引な私を、教頭先生が「無理なことはだめだよ。みんなが一緒にやろうという意識にならないと研究はうまくいかないから」と。私の強引な部分を変えた思い出深い学校です。それ以来、先生方の意識や現状把握を一層考慮し、組織的に研究の推進に心掛けました。
 校長として赴任した河内小中学校は小中併設校で、学校研究も小中一貫でした。義務教育九年間を見通すことの大切さ、系統性の大事さを学ぶことかできました。義務教育ですべきことがよく分かりました。一年間のスパンで到達することと九年間で到達すること、系統性が本当によく理解できました。また、小中の校種の壁を越えた実践を推進できることは意義のあることでした。

田辺 初任校は、金沢市の教科指定研究校として、国語科を窓口に学校研究に取り組むことになっていた大徳小学校でした。初任一年目が指定研究校としての一年目で、全教員で、教材研究の仕方、授業の組み立て方、学習集団作りなど試行錯誤する毎日でした。毎日、職員室にもどると、その日の国語の授業の話題が飛び交い、次の日の国語の授業の展開を考え、次の授業に臨むことができました。日々の授業をたくさん参観させていただきました。まずは、同学年の先生と子どもたちの姿から学び、異学年の授業もたくさん参観しました。教師になったばかりで、教えて分からせることが教師の仕事だと思っていました。しかし、授業は、子どもたちが主体的に取り組み、子どもがつくっていくことを学んだことが、教員生活の一歩目で得た私を変えた大きな学びでした。二年目から公開研究会があり、学習指導案は、自分の学級の児童を想定して立てるので、学級ごとに違う授業の流れになり、子どもたちに寄り添う学習指導案を作る必要があることを知りました。公開研究会の学習指導案を作る時、採用二年目の私が「自分の学級では、その意識の流れにはならないと思うから、単元の流れが違ってきます。」と言ったことを、同じ学年にいらっしゃった研究主任の先生が受け入れてくださって「それなら、あなたの考える子どもの意識の流れで単元構成を考えてやりなさい。」と言ってくださったからです。この学校で、六年間、子どもとつくる国語の授業を学ぶことができました。
 三十代で勤務した泉野小学校では、全教科で学校研究に取り組みました。ここで、自分を変えたのは、「子どもはやらない。できない。」ではなく、「子どもは主体性も力もある。しかし、何かの要因で止まってしまうことがある。」という見方を知ったことです。その見方で、学校研究主題を見直しました。「やらない。できない。」から「やらせる。させる。」ための手立てを考えるのではなく、止まってしまった要因を探り、再び「ころん。」と動き出すにはどうすればいいか。教師が無理に動かすのではなく、子どもが自ら動き出す。教師は、それを支援することを学びました。子どもたちの主体的な姿から、「教師が教える。」のではなく「子ども自らが学び成長していく。」という子どもたちが持つ力の素晴らしさを経験できた学校でした。また、授業開始時刻を子どもに守らせるなら、教師も開始時刻・終了時刻を守り、明日もわくわくして学校に来たくなるような授業をするという厳しさを学んだ学校でもありました。
その次の勤務校は、児童数が千人以上にもなった県内一の大規模校の諸江町小学校でした。一学年に五学級あり、六年間で一度も同じ学級ならず、顔も名前も知らない子がいるという友だちとの関係が希薄な子どもたちもいました。赴任した時、発言する子が数人で不思議に思っていたら、「発表する子は決まっていて、私たちは何もしゃべらなくていい。」という子どもたちの声がありました。学び合う楽しさを知らない子どもがいるということが分かりました。学校研究主題「自らを活かし、共に生きる」は、子どもたちの現状を捉えていました。まず、「自らを活かす」から一人一人が授業の主体者であり、全員参加するということに取り組みました。教師は全員と目線が繋がるまで話し始めなかったり授業で全員挙手する場を設定したり手立てを工夫しました。さらに、「共に生きる」から友だちから学んだことを大切にして、毎時間の学習の振り返りに「友から学んだこと」という項目を入れ、次の時間の初めに紹介しました。徐々に、学習に前向きになり、友だちの考えも聞こうとし「俺たちもやればできるってことやね。」という言葉を聞いて、学習経験、環境が違う児童の実態をしっかり捉え、どの児童にも「やればできる。」という気持ちを起こさせることの大切さを学ぶことができました。

山下 三人の先生のお話を伺って、私も「成長させてくれた学校」のことを語りたいと思います。二校目に赴任した大徳小学校では、「国語を窓口」として子どもたちの言語能力を育てていました。体育教師だった私が、国語科の難しさと魅力に捕まってしまいました。体育は、子どもたちは楽しみにしています。国語も子どもたちが楽しみにする教科にしようと小学校の免許を取得しました。もう一校は、赴任三校目の「中央小学校(長町・長土塀・芳斎・松ヶ枝の四小学校を統合)」です。そこで出会ったのが「生徒指導」です。中央小は、校区に片町や武蔵が辻という繁華街があるので「非行対策のための生徒指導」と思っていましたが、自己指導力をつけさせるため「生徒指導の三機能(自己決定の場を用意する。存在感を与える。共感的な関係で展開する。)を学校生活で展開する」というものでした。学校全体で取り組んだ九年間は、大変重要で貴重な学校研究の出会いでした。
 次の質問に進みます。②語り手の「先生方にとって学校研究とは」を語ってください。

中泉 学校研究とは何か。当たり前すぎて考えたことがありませんでした。元になる所を考えてみると、教育基本法や教育公務員特例法では、教員の「研究」と「修養」について明記されています。研究と修養、いわゆる研修と言われるものだと思います。研修には、「自己研修」「校内研修」「校外研修」の三つがあり、研修は、教師としての義務と権利だと言えると思います。その中の校内研修の中核は「校内研究会」つまり学校研究です。研究テーマを設定して、全教員で計画的・組織的に取り組むことが大事だと考えています。そして、学校研究を推進することで教師としての資質・能力の向上が図られると考えています。
 ところで、大村はま先生の言葉に『研究しない教師は「先生」ではないと思います。』があります。研究は教師の使命です。そして、自分を成長させてくれるものです。現職の頃、学び続ける教師でありたいと思っていました。また、生涯学び続ける教師をめざして研究を大事にしてきました。視点を変えると、学校研究を推進することで、子どもたちの成長を見極めることができます。また、子どもの成長を喜び合える仲間がいる。学校研究とは、何にも替えがたいものだと言えるでしょう。

田辺 教師は、一年間、学級の子どもたちを預かり、学習面・生活面合わせて子どもたちを育てていきます。しかし、個人の考えで育てていくとすれば、一年後の子どもたちの姿の目標が立てにくいと思います。「学校研究」は、地域性、児童数、環境、学力など様々な点を網羅して児童の実態を捉えて、そこから付けたい力を明確にし、六年間を見越して、一年後の姿、最終的には、六年後の姿を想定します。その姿に向けて、全教員が共通理解のもとに、仮説などを立てて、手立てを工夫して取り組んでいきます。現任校だからこその具体的な手立て等に全校で揃って取り組めるから大切なものであると考えています。学習規律や学習の進め方など、1年生から六年生まで同じであれば、、児童も教師も安心して進めることがてきるのです。だから、「学校研究」は、研究として、別枠で進めるものではなく、日々の授業や生活に直結し、活用できるものでなくてはならないと考えます。学校研究で、子どもたちが意欲的に課題に取り組むように、導入について手立てを工夫することにしたとしても、それぞれの学級の児童に合わせた手立てをとることになるし、担任の教師の個性も出ます。学校研究で土台がしっかりそろった上で、一人一人の教師が、学級の児童の実態に合わせ、教師の経験や個性を活かして工夫できるのが、やりがいでありおもしろみでもあると考えます。

野田 学校研究というのは、教師が研究するのは当たり前で、子どもの前に立つ教師が研究しなかったら、それは絶対、教師ではない。研究しない教師は、子どもの前に立つ資格がないと思っています。研究してなかったら、子どもの前に怖くて出れない。学校研究というのは、それを一人でやるんじゃなくて協働的に行う。なんで協働的に行うかというと、価値観・指導感・教育観が違う者同士が、お互いに教育について語り合う。授業を見せ合う。見せ合った授業ついて語り合う。相互啓発が自分を成長させてくれると思うんです。そして、教師は育っていく。自分は、そういうふうに経験してきましたので、やはり、学校研究を大事にする学校であってほしいし、そういう教師であってほしいと願っています。
 もう一つ言うと、「こなす授業」から「つくる授業」へ。学校研究では、「こなす授業」が「つくる授業」であってほしいと思います。「こなす授業」というのは、誰かが作った授業案をそのままやっているだけ。「つくる授業」は、もう一度自分で教材に対してぶつかってみて、そこから価値を見出して、子どもたちにそれをどうやってぶつけていけばいいかという創造的な営みなんです。

山下 全教員の共通理解のもと基、全学級で展開される学校研究ですが、③学校研究を進めるにあたって「大切にしたいこと」を語ってください。

田辺 児童の実態を基に学校研究を進めますが、「こんなこともできない。」とか「これしかできない。」というようなマイナスの捉え方をしないことが大切だと思います。「これができる」「ここまでできている。」だから、それをもとにして、さらに、どんな力をつけていくのか。どんな姿を求めていくのか。そのために、授業では、どんな工夫や手立てをすればいいのか。学校研究のふりかえりをして、成果と課題をはっきりさせて、次に繋げます。その時、成果はとても大切です。さらに、よくしたいという思いから、ついつい、足りなかったこと、うまくいかなかったことに目が向きますが、それでは、次へのモチベーションが下がりませんか。まずは、成果が見られる子どもたちの姿、そして、その手立てや工夫をみんなで共有してこそ、次への意欲がわくのではないでしょうか。その時、大切なことは、学びの成果が、子どもたち自身にも実感できているかということです。学校研究は、教師だけのものではありません。子どもたちにとっても、その成果が見えたりそれを通して育っていくことが喜びであったり付いた力が実感できたりすることが大切だと思います。その上で、次の課題に向かうことへの意欲がわいてくると考えます。
 「子どもがぜんぜん発表しない。」「やる気がなくて困る。」と言う教師もいます。それに対して、先輩の教師が、「発表したくなるような授業をしているか。」「目を輝かせて解決したいと思う課題や単元構成になっているのか。」とおっしゃいました。子どもたちを責めずに、教師が、自分自身を振り返ってみる  ようにおっしゃったのだと思います。学校研究は、成果も課題も全教員で共通理解し、検証し、改善しながら取り組むことができる大切な場だと考えています。一人で、子どもたちを育てているのではないからです。

野田 教師一人一人が、自分が成長していくために、教師間に相互交渉・相互啓発を作り出すことが、学校研究では一番大事だと思います。学校研究のテーマが外から持ち込まれたり、担当者が一方的に提示する与えられた課題ではなくて、大切なのは、一人一人の教師にとって「意味のある」「納得できる」「実感できる」テーマや課題を設定すること。そうすることで、学校研究が初めて協働的なもの「みんなのもの」になると思います。かつて、パターン化した学校研究もあったが、段々柔軟になってきたと思います。素晴らしい研究校は、みんな柔軟性があります。研究協議会が、授業者からのふりかえりに始まって、授業者への単発的な質疑応答に終始して、最後に助言者に聞いて終わるというパターンが発表会に多い。それでいいのかなと思って。一部のとってもしゃべるのが上手な教師が雄弁に語る研究会もありました。教師は、学び合うという充実感がほしいまま、授業研究が形骸化して、上から下への学校研究では、そうなりがちなんです。本来、学校研究とか授業研究というのは、一人一人の授業者が子どもの姿について語り合うものでなくてはならない。子どもの変容について見取る。その見取ったことを互いに出し合う。こういう学校研究であってほしい。やはり、子どもに返る。子どもにもどる。子どもが成長するための学校研究であってほしいと思います。

山下 学校研究は、最終的には、子どもに戻っていかなくてはいけないということですね。

中泉 社会は著しく変化しています。多様化し予測困難な時代の変化とともに、社会からの要請、地域や保護者からの要望等多岐にわたっています。教育課題も山積しています。教員の働き方改革で業務の効率化も求められています。ICTも発達して、色々な所で変化している中で、いつの時代にも変わらない、不易と流行の不易の部分で学校研究というのは大事にしていくべきかなと思って、三つのことをあげたいと思います。①共通理解と共通実践・・・計画的に、組織的に
学校研究の主題、取組の重点等みんなでやっていく共通理解を大事にしていきたいと思います。学校では、二十代三十代とか年齢とか教職年数、キャリアも違う職員構成の中で、大事にしていきたいと思います。提案は、シンプルなものが一番だと思います。分かりやすい提案をして、それについてみんなが分かるまで納得できるまで議論する時間をかけるべきだと。上から言われたまま「はい。はい。」というもので、一人一人が自分のものになっている学校研究かと言われると心配な部分。なんとなく分かったつもりいうのはだめですね。実践をしていかないといけない。共通実践、みんなで進めていくというのが大事だと思います。
 ②成果と課題の見える化
 整理会も工夫されています。授業参観者が、良かったことと良くなかったことを色の違う付箋に書き、それを整理したものをもとに話し合いをするという学校研究にも出会いました。子どもにアンケートを取り集約してデータ化したり。何となくと経験に頼っていたものではなく、客観性のあるものにする。見える化することが大事だと思います。成果だけでなく、課題も明確にする。研究紀要も大事にしたい。
 ③職員間のコミュニケーション
 話し合える、聞き合える雰囲気は大事にしたい。子どもを中核にして、授業を中核にして会話する。職員室でパソコンに向かって仕事している場面に会うことがあります。人と人が向き合うことを大事にできたらいいんじゃないかなと思います。この何年間は、コロナウィルス流行の対応で、マスクをしていることで、会話が少なくなったり表情が分かりにくい。人が何を考えているのかなって表情から読み取ることで、感情の機微が取りづらいことが多くなって、それがちょっとずつ解放される中で、コミュニケーションが大事かなと。積極的に自分からコミュニケーションを取っていく。そういうことを大事にすることが学校研究を支えることになると思います。

山下 コロナが始まってからこの数年間なかなかみんなと語り合えるとか共通の時間を過ごすというのがなかなかできなくなったような気がします。本来、学校研究には、先生たちが集まって子どものこと授業のことを話し合うということが一番大切だと伺いました。
 最後に、学校研究について若い教師に伝えたいことはありますか。

野田 課題に向けて、教育委員会がやってほしいことを学  校にやって貰う。学校研究の助言を頼まれたが、何の 研究かというと、評価の研究だという。指導と評価は 一体のものなのに、評価というところだけをちぎって 学校研究をやれって言う。これは、考えたら苦しいこ とだと思う。国語の推進校としてやってくれというの まだいいです。私も、英語の研究校でと言われたこと もあったけど、そういう大枠で言うのはいいけれど、 細かい文節でここをやってくれと、委員会の都合で言 うのは学校にとってみるとやりにくいことだと思う。 その辺の自由度がもっと学校にあって職員同士で話し 合いながらやっていけるような学校研究でないと面白 くないなあと思います。昔のような教科指定の研究校というのが減ったんじゃないかな。熱のあるやつね。

山下 昔は、学校で研究が決まっていたじゃないですか。例えば、大徳小学校なら昔は国語、次は体育。瓢箪町小学校は理科。新竪町小学校は算数。今はあんまり言わない。

野田 そこには、凄いリーダーがいた。そういう教科研究校にはそんなリーダーがいないとなかなか教科研究校ってうまく動いていかない。平凡な中身で終わっているんじゃないかなと思う。他の学校に刺激を与えるような凄い研究校というのはなくなった。村端先生や山形先生は凄かった。山形先生は、研究授業の時、どこにいるか分からない。全部、子どもが自分らで授業する。ところが、四月は完全に前面に立って指導しておいでる。それが、十月ぐらいになったら先生はいなくなって教室の後ろにいる。理科準備室を子どもたちが自由に使える。実験の準備は全部子どもたちができる。いいか悪いかは別にして、そこまで凄い研究校というのは今はあんまりないんじゃないかと思います。
 木曳野小学校で社会の研究指導をやれと言われて行ったが、みんな全くやる気がなかった。なんでこんなもんせんなんという強烈な雰囲気だった。どうしてこの人たちに社会科に目を向けさせるかと思いました。いかに社会科の教材研究が楽しいか。まずそこからだと思った。社会科が楽しくなるのは簡単。教材研究に行けば楽しい。輪島に行って輪島塗を見てよるお酒を飲むとかね。豊田に行ってトヨタ自動車の工場を見て来るとか。これは誰だって楽しいじゃないですか。そんなところから始めたんです。そうしたら、だんだんだんだん一年目教材作りをやっていて教材作りはみんな好きになってきて、中には絵を描くのが上手な人、カメラが得意な人がいるじゃないですか。そんな人たちが教材を作り出す。なかなか授業まではいかない。二年目三年目になって授業になっていって。そして最終的には、社会科のカリキュラムを作るところまでいったんです。そんな経験はあるんですけど、やっぱりあんまり歓迎されない研究をやるというのは大変ですよ。今はどうなっているのか。今はかえってあっち向かない。適当にやってしまう。かえってやりたくないとはっきり言った人たちの方がやりだすと燃える。昔は、学校研究に反対する者と賛成する者がおるけれど、いったん火がついたら頑張るというのが多かった。今は。若い先生も多いし、そういう雰囲気はないんじゃないかな。三馬小学校に去年行った時「一番の悩みは何ですか。」と校長先生がアンケートを取ったら「授業」「授業をどうしたらいいか分からない。」というのが六十%。どこかのアンケートでも、「授業が市場苦しいです。」という教員が七十%おるという。今の先生方は授業をどうしていいか分からんという先生が多い。そんな悩みに答えるような研究をやっていく。その時には、授業について語れる人がおらんと。自分のやってきたことだけ語っとってもみんな分からん。一般論化して授業を語れる教員がどこまでおるか。

中泉  野田先生の言葉の中にそうだなというのが二つあって、一つ目は、すべきことをいかに教師がしたいことに変えていくか。上からではなくこれをしたい。あれをしたいというように変えていくためには、見通しを持ったものもいるだろうし、優れた一人の先生がみんなをひっぱっていく場合もあるし、ちょっとした成果とか喜びからそんなものからすべきことをしたいことに変えていくことは大事なんだろうなと学びました。二つ目は、今、授業がパターン化している。どこに行っても導入・課題までが七分最後はこうやってという。パターン化というのは、ある面では若い先生ってそこから入っていくスタートはとても大事なところで、誰がやってもとの人も七割八割いく。いつまでもパターン化に甘えていたらパターン化のままでいたらやっぱりいけない。そこからその枠を壊して高めていくかということも学校研究を大事にしていかなくてはいけない。子どもを中核にして子どもがどんなふうに変容したかということを一時間または長いスパンで変えていくいう時には優れた授業を見たり私が若い時には憧れる先生の姿を見て学ぶことができて幸せだったなと思います。

山下  パターンから入ってパターンを脱していけというのは、村端先生がいつも言っていたのは形から入って形を壊していく。それが分かるのは、だいぶ経験してからでないと分からない。とにかくパターンでやってみないと次に進まないということですね。最後に、④日々忙しく過ごしている若い先生たちに「学校研究の必要性」「モチベーション向上」になるようなアドバイスをお願いします。

野田  学校研究を若い先生に大事にしてもらうためには、学校研究があなたの今の悩みを乗り越えるために必要なんだよということが分からないとだめ。授業がどうしたらいいか分からないという悩みがある。それと同時にそれだけならいいのに、今の若い先生はいじめとか不登校の心の問題にもまさに生徒指導の問題に直面していて、そういう背景には必ず保護者の問題がある。こんな問題と直面しながら、だから十分授業に集中できないから授業がどうしていいか分からない。それは、私の若い時と全く違う。私の若い時は、授業に集中すればよかったという時代があった。子どもの持っている不登校のような問題を解決できる授業研究をやっていく。さっきの中央小学校がだいぶ前に生徒指導の三機能を生かしたというのは先駆的なこと。それで授業研究をした。でもあれは、中央小学校に生徒指導の問題があったからです。何人か大変なお子さんがいらっしゃる学校です。だからかつての中央小学校のようなやり方を学んで、まさに生徒指導と授業研究。子どもの育ちと学びが融合できるような学校研究をやっていくと若い先生たちも納得出来るんじゃないかというふうな気がする。例えば、主体的な学びと対話的な学び。対話的な学びを成立させるためには、本当に子どもたちの中に相手を思う気持ちがないと絶対にできない。だから、相手を思う気持ちがどうしたら生まれるかといったら、その子が認められる。その子が居場所があることなんです。居場所を先生がそういう子たちに作ってあげるとそうするとその子たちは安心感ができる。そうなった時に初めて自分を大事にして友だちも大事にる心が芽生えてくる。そういうことといっしょにやりながら授業を進めていく。話を聞くことを大事にした授業。しゃべることを優先じゃなくて、聞くことが大切だよという授業をしていくと聞くことは人への優しさだと思っている。それを大事にした授業を進める。そういう学校研究であるということも大事だとおもうし、生徒指導的に言ったら、本当に子どもの中に自分をひけらかす子どもを作らないということ。いじめで問題があるという学校へ行ったんです。授業を見たらどんな授業かというと、「はい、はい、はい。」ばっかり。みんな手が先生に向けて「はい、はい、はい。」ばっかり。「ぼく当てて。」友だちなんか大事にしていない。いい学級は、子どもたちが必ず、他の子どもたちといっしょに勉強しようということで「はい、はい。」とは言いません。こんな風な授業を作らないといけない。「これやっとったら、いじめはなおりませんよ。」という話をしました。子どもの問題に直結したような授業研究を学校でやっていくと、なるほどと思って若い先生たちもやるんじゃないかなと思います。もう一つ、学校研究は、よい先輩に出会うこと。実は、私たちもみんなよい先輩に出会って成長させて貰ったんです。必ずみんないるんです。メンター。よい先輩と出会うというのが学校研究。メンターを選ぶのは、自分が選べばいい。それをあなたはこの人という指導教員では困る。あくまでも好きな人を自分で選べた場合は、全然違う。十一屋小学校にいた時、五十代の先生に一学期に授業をして貰い、若い先生には先輩の授業を見に行くように。見に行って、どの人の授業に恋するのか決めてその人をメンターとして仰ぐ。自分の学校にいなかったら他の学校を紹介するということをしていたことがある。こんなふうにして、メンターと出会うことが学校研究だとして、うまく学校の中でしかけができたら若い先生はずいぶん喜ぶと思う。そんなふうにして、若い先生が学校研究って自分を成長させてくれるんだというふうな実感が持てる研究をすること。そして、もう一つ、ベテランの先生に先に授業を見せて貰って、若い先生は夏休み後に研究授業をするように言いましたが、夏休みに育つと思う。子どもとの実践はないけども、自分をふりかえり、教材研究に打ち込めると思う。夏休みをうまく活用して自分を成長させるということを身につけたらいいよということを、これはちょっと一般化できるか分からないけど、私はそんな思いでやってきました。そして、十月ぐらいに若い人たちに研究授業して貰ったらいい授業をしていました。先輩が夏休みに面倒みるし、自分でも勉強するし、たりない場合は外部の教科の得意な方を呼んで話を聞く。とにかく納得して、すとんと落ちてやる。それは、自分が初任の学校で教材研究して自分が少しでも疑問があったら納得できない先生の姿を見て、二百CCのビーカーの重さが違うことを知らない私との大きな差を感じました。若い先生方にそうやってほしいけど、今は、働き方改革で時間の削減ばかり言っている。働き方改革は、時間の軽減をしてあげることは当然ですけども、そこには、仕事の充実感とか喜びということがなかったら本当の働き方改革じゃないのではないかと。量的な働き方改革だけしないで、質的な働き方改革をしていくことは、学校研究をさっき言ったようにやっていくと、若い先生たちは凄く成長できるし学校研究の大切さを思うようになると。これが伝わるようになるかなと思って現場で実際にやってほしい。

山下  若い先生にとって悩んでいるものが学校研究を通して解消できる。または少しでも力がついたものになるとやる気が出るし。その前にも憧れる教師というか。メンターが必要だし。夏休みには、自分一人でやるんじゃなくて先輩も必要なんですね。学校研究としてやるんならば、先輩も必要になってくる。

田辺  今の若い先生たちを見ていると、子どもたちが変わっていく姿とか成長していく姿を見た経験がないんだと思います。こんなに教材研究をいっぱいしてはりきって授業に行ったら、子どもたちの食いつきが違って成長の姿がばーと見えてきて。子どもの豊かなしゃべりとかもの凄い子どもは頭が柔らかいから、私たちが創造もしなかった素晴らしいことを言うじゃないですか。そういった経験を若い人たちがしてないなあと凄く思って。それが凄くかわいそうというか。だから、時間数とかもの凄く言われているんだけど、本当にこっとりと時間を掛けて授業する単元があってもいいんじゃないかなって思います。これで絶対子どもが成長するぞ。これで力をつけるぞ。これで授業する喜びを教師も子どもも感じられる。そういう豊かなものが、一年間の中で一つでも二つでもあれば、教師も子どもも違ってくるなというのを今お話をききながら思っています。子どもが授業でああ嬉しい楽しいって喜んでいる本物の姿を見ていない。自分のタブレットで○○ゲームをしてキャーキャーと言っているのを楽しいと誤解していることもある。今、学級の人数は三十人弱が多い。昔は四十人以上のこともあったが、全員を見ようと頑張っていた。髪の毛を切ってきたな。顔色が悪いけど家で何かあったのかな。今日は手が挙がっているなとか。そんな色々な姿から四十人全員を見て授業し、子どもとの繋がりを作ってきました。今は、三十人弱でも全員見れていない。五~六人の「はい、はい、はい。」の子と授業している実態は残念だと思います。そんなこともお互いに教え合えるような学校。そうじゃないんだよって。数人で授業が進んでいって、内容が進んでいっても、それは、決して全員の学びにはなっていないし、みんなの喜びにもなっていないということがちゃんと出せるような学校研究。授業の流れが上手に立ててあるねとか。それこそ、先輩の凄い指導案が貰えて、それでこなせましたね。というのではだめなんですよね。
 授業の準備や子どもたちとの関わり、保護者との連絡など、毎日本当に忙しい日々を過ごしている先生方なんですが、現場に行くと、「こんなに忙しいのに、学校研究とか研究授業は負担が大きいという声を聞くんです。」学校研究が、どうも自分の授業作りとか学級作りと切り離されたものであるような中身になっている。さっき野田先生がおっしゃるように子どもの実態から考えた必要感のある学校研究であればそうはならないはずです。ところが別物になってしまっている。別物と捉えられていることがどうしたら自分事になっていくかということが凄く難しいことだと思います。ただ、私が若い先生たちに言いたいのは、私が初任で行った学校で一年目に言われて今までずっと守ってきたことです。「研究会に参加したら、必ず発言するのが礼儀だよ。」ということを言われました。一年目二年目の者が全体会で発言することは、凄く緊張しますし本当はいやですよね。発言したくないですよね。でも、そうやって自分も混ざって一人の研究者として発言するとなると、研究会や研修会に参加する時も研究授業を見る時も『自分だったらどうするかな。』『自分の学級の子だったら、あの発問で何と答えるだろう。』って自分事として考えられるチャンスを貰ったというか。「必ず発言するんだよ。」ということの意味には、自分が本気で参加して発言するから、他の人の考えも聞いて取り入れたくなるということでもあるのです。学んだことは『明日やってみよう。』とか公開研で勉強になったことは『月曜日に学校に行ったら、子どもたちにこの発問を投げかけてみよう。』とかそんな気持ちになるのです。子どもたちに主体性を求めますね。研究会でも学校研究でもなんでも、自分がどうしたら主体的にに取り組めるかという意識を持つことがとても大事だと思います。
 今、若い人たちが色々なことに苦労を感じていると思いますが、先生という仕事は本当に喜びがあります。子どもたちと過ごせる幸せ。子どもたちのパワーを貰って子どもたちから学ばせて貰うことがいっぱいあります。私が、いつも子どもたちに言うのが『苦あれば楽あり』です。「今、苦労して頑張っていることが絶対自分の力になるよ。」それは、子どもにも自分にも言えることだと思っています。若い先生たちが、今大変な苦労をしていると思うけれど、今の悩みとか望んでいることを先輩たちにもぶつけてみたり訊いてみたりして、自分のものとして返ってくるようにされたらいいのかなと思います。

山下 「苦あれば楽あり」「楽あれば苦あり」やね。楽を先にしたらいかんということですね。苦労を先にしなくてはならないということやね。学校研究で苦労しましょうと。

中泉 違う観点から三つお話したいと思います。一つ目は、若い先生にはもっともっと本を読んで貰いたいと思うのです。その前に、授業実践する中で指導案を作成されると思うのですが、どこかで見た指導案をそのままコピーして貼り付けというのを多々見ることがあるんです。一番先生方がもとにするのが指導書とかハウツー物って、私は若い頃には明日の授業の発問どうしようとかこの教材の板書どうしようかという時にはハウツー物っていうか具体的なそんな物にたよったこともあったんです。一番手っ取り早くてこれでやると明日はなんとかなりそうだという。その基の基というのは、学習指導要領で原点にかえることはとても大事なことだと思います。今、調べ物をするのはネットですよね。「この漢字、どうやって読むの?」ってすぐスマホで。やはり、文章、活字に返るって大事にしてほしいなって。本をもとにすると、調べたいことの前後で新しい発見とか気づきとかたくさんあるので、教育書も大事にしてほしいですが、一般の本を読むことを若い先生に大事にしてほしいなと思います。本を読むことによって自分が豊かになれる。先生というのは、自分が豊かになれなかったら、子どもの前で豊かな人生の先駆者として人生の先輩として立つ拠り所がないんじゃないかなと思うんで、本を読んで豊かになってほしい。
 二点目は、学級経営を大事にする。学級が母体で授業実践と学級経営というのは、車の両輪で学級経営ができたからさあ授業というものでもないし、授業やってから学級経営というものでもない。二つのもの相互的に関わり合っていくこと。その核となるのが子どもってことで大事にしてほしいなと思います。どのこどもも居場所があって、学級の中で生き生きと活動できたり仲間に認められて仲間を認めることを学校研究でも大事にしてほしい。
 三点目は、論理的で抽象的ですけれど、今、自分がやっているのは、目的か手段か。明確に分けることは凄く大事なことになると思います。学校は、学校経営ビジョンがあって学校研究があってなおかつ学年目標があって学級目標があって研究主題があって掲げるものがたくさんあることが多いですよね。そんな中で、今、自分が進めているのは、この中のどれなのかなって。やっていることが目的ではなくて、やることが手段であり、その手段を通してここを今目指しているんだということを明確にするには、手段と目的を明確にしてほしいなと思います。イソップの寓話を例にあげて、レンガ職人に出会った時に「あなたは今何をしていますか。」と訊くと「私は今レンガを積んでいます。」次の職人に訊くと「レンガを積んで壁を作っています。」三人目の職人は「レンガを積んで後生に残る大聖堂を作っています。」この三人の職人の違いは何か。意識の問題ですよね。今、自分がやっていることを何かという。仕事を仕事として捉えるばかりじゃなくて、仕事を使命と感じる目的意識というのは大事にしてほしいなと思っています。最後に、先生には元気であってほしい。子どもと「明日、元気で学校に来るんだよ。」という時には、先生も元気で明日学校に来てほしい。明日こんな授業をしようと。こんな子どもにしようと。子どもは明日どんなふうになっているかなというわくわく感。これを無くしてはいけないな。明日学校へ行くのが楽しみ。そんな子どもであり、そんな先生になってほしい。先生方が心身共に健康で明るく学ぶことが楽しいっていうそういう笑顔を大事にしていってほしいなと思います。

山下 少しオーバーな言い方ですが、狼に育てられた少女は狼でした。「教員は教員の中でしか育たない」と言って過言ではありません。学校研究を共通の窓口にし、先輩もいて後輩もいて、みんなで議論し合う場。そんな場が学校研究会でありたいですね。三名の先生方には忘れることのできない貴重な体験を語って頂き感謝します。有り難うございました。

令和7年度の座談会は、「(仮)教師のやりがい」について予定しています。